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概要

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平和への思いをつないでいくために20私たちの戦争体験談・被爆体験談戦後71年、京都生協では、風化しつつある戦争の記憶を次世代に伝え、平和への思いをつなぐとりくみを行なっています。今回は、コーポロ5月号で募集した戦争体験談・被爆体験談の中から3人の投稿と、2016ピースパレードに寄せられた「ピースメッセージ」をご紹介します。PeaceMessageピースメッセージ涙を流す子どものいない幸せな世界に。世界中の人達が平和で生活できますように祈っています。いま頑張らないと平和な日々がなくなってしまう!子どもたちに“平和という財産”を残しましょう。Love & Smileまったのでしょうか。を飼い、餌を集めるのも子どもの仕事でした。と赤ちゃんが寝ていたベッドはどこに消えてしいた糸で軍手や軍足を作っていました。鶏や豚亡き母のダイヤの指輪や帯留め、鉄の薬缶、母絞り加工業。贅沢品は禁止となり、絞りをほどた。戦争のために子どもも苦労し、「供出」した家の亀岡に引っ越しました。父の商売は室町の弟妹たちが公立の学校に通学するのは大変でしたこともありました。小学6年生の春、父の実本科・高等科を修了することができましたが、きに参加しました。畑で小麦を作り石臼でひい亀岡高等女学校を卒業し全日制の洋裁学校の女学校では食糧生産のために無償で農家の草引た姉は、「十九の春」に亡くなりました。私は、ち子どもも、千人針をしたり慰問袋を作ったり。府立第一高女を卒業して洋裁学校に通っていました。私の従兄は戦死して靖国神社へ。私たました。がり、小川が流れ夏は蝉しぐれの降る中にあり来たときには、21歳の私が立会人として対応し実家の里は、老ノ坂トンネルの横の坂道を上えなくて家具は差し押さえられて封印。役人が主義が始まっていくのです。れ、一部は官舎になってしまいました。税金が払た昭日和でも16年あり12月ました。その日を境にして、軍国た家は、3つに分断さ8日。私の母方の祖父が亡くなっ天国へ。300坪あっ第2次世界大戦(大東亜戦争)が始まったのはうように赤ちゃんもなってしまい、後を追下京区福井君子目のお産で母は亡く亡寝きて母いたとベ赤ッちドゃはんどがこへの子どもがいて、9人やせよ」の時代で8人何しろ、「産めよ増04