ブックタイトルbookcopolo1708

ページ
6/16

このページは bookcopolo1708 の電子ブックに掲載されている6ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

bookcopolo1708

平和への想いをつないでいくために私たちの戦争体験談戦後72年、京都生協では、風化しつつある戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いをつなぐとりくみを行なっています。コーポロ6月号で募集した戦争体験談・被爆体験談の中から3人の投稿をご紹介します。亡き父が見た東京大空襲与謝野町新緑好子父が亡くなって4年になります。父は、普段は戦争のことは一切口に出しませんでしたが、お酒を飲むと東京大空襲のことを話してくれました。当時、父は大学生で、下町のあたりに下宿していました。大空襲のあった日、空を見上げると数えきれないほしょういだんどの飛行機が焼夷弾を雨のように落としたのだそうです。「とにかく逃げよう。」父は身ひとつで、線路づたいに山の手の方に走りました。人々の頭に焼夷弾が直撃し太平洋戦争の時代に生きて西京区西島みちよ(88歳)72年前も、空は抜けるように青かった。今と違ったのは、B-29が飛行機雲を長く伸ばし、大阪に向かっていったことだ。南の空が真っ赤に染まり、それは翌日まで続いた。大八車に家財を積んで避難してきた人が「大阪が大空襲にあった」と言った。当時は人づての話が主な情報源で、ラジオや電話は学校や役場にしかなく、戦況は校長先生の話を信じるしかなかった。大本営発表※は「敵に大損害を与え、我が方の損害は極めて軽微なり」。国民は蚊帳の外で、310万人の犠牲者の実態も戦後まで知る由もなかった。従兄弟は20歳の若さで出征し、ミャンマーに消えたのか、今も帰ってこない。私は滋賀の山村生まれで、直接戦火を被ることはなかったが、経済戦争はもろに被った。「欲しがりません、勝つまでは」と教えられ、小学生時代はずいぶん我慢させられた。古着につぎを当て、新品を着たことは一度もたり、前を走る人がバタバタと倒れていく中、父は必死の思いで逃げ延びたそうです。空襲が終わり、下宿へ戻る道々には亡くなられた方の遺体が少なからずあり、父の住んでいた下宿は影も形もなくなっていたそうです。父は男ばかりの5人兄弟の末っ子でした。私は小学生のころ、夏休みは父の実家に1週間ほどお世話になっていました。父方の祖母は、毎朝5時に起きて仏壇に手を合わせていました。仏壇の上には、父の兄2人が軍服を着ている写真が掲げられていました。今思うと、戦争に子どもを取られた祖母は、さぞ悔しく、苦しかっただろうと思えてなりません。今でも世界の各地で戦争やテロが起こっています。子どもの命がいとも簡単に失われている今の状況と、日本の不安な動きに対して、子どもたちや若い人たちのため、何かできることを行なっていきたいと思います。なかった。学用品もなく、古新聞が真っ黒になるまで字を書いた。年に一度の祝日でさえも、叔父のくれた鮭一切れの弁当を、「おーい!こいつ、鮭食っとるぞ」と騒がれた。川で捕ったタニシやドジョウなど、食べられるものを探し、古物を再生して私は生き延びた。しかし、昭和1 6年から病気で伏していた母は、栄養不足で満足な治療も得られず、昭和21年に5人の子を残してこの世を去った。みんなモンペと草履姿で葬式に参列した。近所の人がお供養に作ってくれたぜんざいは、砂糖が手に入らないため塩味だった。戦争は昭和20年8月に終わったが、食料品、日用品、衣料品不足は昭和30年ごろまで続き、国民の生活苦は長く続いた。戦争は、もうこりごり。世界の人々と、手を結び平和を守ろう。※大本営発表太平洋戦争において、旧日本軍が行なった戦況の公式発表。初期は大体正確だったが、作戦が頓挫した珊瑚海海戦(1942年5月)の発表から戦果の水増しが始まり、以降は戦況の悪化に関わらず、虚偽の発表を行なった。06コーポロ2017年8月号