
京丹後市 I.M
戦時中のくらしについてのいくつかのことを書いてみます。
衣食住の中で一番困ったことは食ではなかったかと思います。
米・醤油・味噌・砂糖などはお金で買うことはできず配給制になりました。米の買い出しに行きました。お百姓さんにたのんで持っていった衣類や塩などとの物々交換でした。ヤミといって、わかれば取り上げられてしまいます。汽車で京都の方へ毎日行った方もおられたようです。汽車の中でつかまれば取り上げられるので、踏切の様なところで外へ放ってしまうこともききました。
昭和17年12月私は京都の宿で一泊することがありました。17才の時です。配給のお米を持っていきました。宿のごはんは黄色のごはんでした。“卵めし”かなとよろこびましたがそれは、キビの入ったごはんだったことを覚えています。
家では毎日のごはんには葉っぱや海藻などを入れていました。葉っぱの入った山むしこめしのほか、海辺ですのでジンバやホンダワラ、あらめなどの海藻を入れて炊いて、まっ黒のごはんでした。米が少ないからです。イモめし、大根めし、豆めし などなんでも入れてごはんの量を増やしました。忘れられないのは黄色いごはんです。マイロ(*1)粉といってくさい黄色の粉のごはんは、私はどうしてもたべられませんでした。
さつまいもの時期になると、さつまいもの葉っぱをゆがき、叩いて練って小麦粉を入れて団子にし、塩を少し入れただけの汁に浮かべ、お腹をふくらませました。南瓜(かぼちゃ)の頃は、南瓜ばかりで手のひらが黄色になりました。近所のおばあさんが、孫たちに南瓜をたべさせようと、他所の畑の南瓜を負い籠に一ぱい入れ、もち上げられず畑で亡くなっていたという事件も起こりました。
甘いものは全くなく、さつまいもが一番甘かったと思います。お嫁さんのお菓子もこの頃はさつまいもで作ったいもあめでした。
私の家は母がにわか百姓になり、小麦や稲を作りました。(父や祖父は昭和2年3月7日の丹後の震災で風邪をひいたりして亡くなり、その頃、家は母子家庭でした。)クワとカマだけの百姓です。稲の株のぬき方を百姓のおじさんから教わって始めました。母は、私たち二人の子どもを育てるためにやったわけです。その時の母の心を思うにつけ胸がつまる感じです。私たちは、麦踏みや稲刈りなどを一寸(ちょっと)手伝っていました。狭い土地があれば近所の人と一緒に開墾にいき、さつまいもを育てていました。
お百姓さんのお家では、物々交換を頼まれるとこの人にはお米と替えてあげたのにこの人には替えてあげないというわけにはいかないので困った、と云っておられたそうです。ずっとあとになって、お百姓さんの家の方に聞きました。お嫁さんをもらうなら農家からもらえという風に農家は尊重されたということも聞きました。
ごはんの量をふやすために、山の近くの方は山へいき、海が近い方は海へいってごはんにまぜて子ども達を育てていきました。弁当箱についた一粒のごはんを残さずたべた私たちの年代は、物をすてるということができません。こんな中で私たちは大きくなっていきました。
国民学校と名前が変わったりしました。小学生は初等科、高等科です。高等科(6年卒業して、次の2年間)の子どもたちは、先生につれられて町の工場に行き、軍需産業の仕事を手伝わされていたこともあったようです。
初等科5年・6年の高学年は、川の堤に南瓜の種まきをしたり、あぜ道に大豆の種をまいたり、日本海の海水をリレーして塩つくりのお手伝いにいったりもしました。一キロもある道を歩いて木の枝を運ぶこともありました。炭を作るためです。
高等科の人たちは校庭の半分位を高い畝(うね)の畑に作りかえてさつまいもの苗を差しました。“ゴコク”という種類で、すごく大きくなる種類でした。質より量の時代でした。
一つの組にたびたび物の配給がありました。組に二、三足位の短い靴などです。靴のない子どもにくじびきで配給しました(有料)。今の運動靴の様な短い靴の裏はゴムでなく、厚い紙で作られていたように思います。
工作では、細い竹に穴をあけて笛を作りをしました。これは、できたものをモールス信号の練習につかいました。
(イ)・−(ロ)・−・−(ハ)−・・・(ニ)−・−・(ホ)−・・ …とふきました。
藁(わら)で草履作りもしました。
音楽は、階名(ドレミファソ)が音名(ハニホヘト)に変更になったりしました。ドドレレミミレがハハニニホホニなんて歌いにくかったです。
戦争末期、一学期の途中まで疎開児童が一つの組に20名入ってこられました。一組50名の級にプラス20名ですので、机間巡視できないくらい教室いっぱいで勉強しました。
疎開の子どもさん達は先生達と一緒に父母から離れ、町のお寺や公会堂の様なところに分かれて宿泊しておられました。お風呂は当時ちりめん工場の大きなお家などへいかれたと聞いています。また、近所のお家へもいっておられたようです。途中で病気になられたりして、京都へ帰っていかれる子どもさんもいました。戦争が終わりに近づくと兵隊送りもなくなりました。疎開のみなさんも或る日突然学校へこられなくなりました。私の町は海辺なのでいつ敵が上陸してくるかわからないというのでもっと山の村へ移動されたということを後で聞きました。小学生の子ども達が親と離れ、知らぬ町ですごすことは、本当に大変だと思います。今、20名の中の一人の方が六十何年も続けて年賀状を送ってくださって、なつかしく思い出しています。
取りいそぎ、思いだすままを羅列しました。乱筆でごめんなさい。私は今、八十三才。誕生日がくれば八十四才になります。疎開の子どもさん達は十才年下だったと思っております。
戦争は絶対いやです。憲法九条をぜひぜひ守ってほしいです。
*1マイロ:日本名で「こうりゃん」と呼ぶイネ科の一年草で、乾燥、暑さに強く、現在は主に飼料用として輸入されています。
綾部市 T.M
都会からの疎開者を受け入れていた所に住んでいた者でも食糧事情は悪く、母は配給衣料を農家に持っていって食糧と交換し、薄いお粥を作って食べさせてくれました。銭湯に行き湯から上がると、目を開けているのに目の前が真っ暗で、しばらくじっと立ったまま見えるようになるのを待っている状態が続きました。肝油を飲んだりして栄養失調を補っておりました。
京都市右京区 K.O
昭和20年か21年ころだと思います。
戦後間無しのとき、当時20才の母の近所には、いわゆるパンパンと呼ばれた女の人が住んでいて、アメリカ兵を相手に売春で生計をたてていました。警察の手入れがあると町内の人が、その家の2階にはしごをかけて、アメリカ兵を外に出し、その女の人は、はしごをおりてほかの家にかくまわれました。町内でその女性をかばっていました。だれも「パンパン」と言ってその女性をバカにすることはありませんでした。生きていくために仕方なく売春していたので、それから後も捕まることはありませんでした。戦争はこういう悲劇を生みます。2年して私が生まれました。
右京区 廣瀬耕作
(廣瀬さんは昭和19年7月招集され、10月にフィリピンに出征、戦闘を経験されました。後に、戦場での様子や降伏後捕虜になり帰国されるまでの様子などを手記にまとめられ、2004年『フィリピン ネグロス島敗残兵記』として自費出版されました。その一部を引用させて頂きました。)
とにかく米軍は、我々が後退し逃げ込んだ深い山中の場所を、暫くすると嗅ぎつけ、毎日それまでと同様執拗に砲爆撃をかかさない。戦車の来られるような道から遠く離れた山奥で、戦闘能力を失いやっと生きているような軍隊なので、地上兵力で直接攻め登っては来なかったが、すぐあの低空でゆっくりと旋回し飛ぶ観測機などが感付くのだろう。移動しても元の木阿弥となる。低くしかもゆっくり全く我々をなめ切ったように飛ぶので、小銃でも届きそうだが、誰も撃たなかった。その仕返しの砲爆がどれほどのものになるか、を恐れて。
糞便にでもついて来るのだろうか、金蝿も同じで、人の居るところには必ずおった。そして便には、うじ虫がすぐ湧いた。
このような日の午後、小西が迫撃砲でやられた。私は元の壕に帰っていたが我々の壕ヘ運び込まれたのを見ると、頭の前の方、額のすぐ上の毛のある部分が、ほんの一銭銅貨(現在の十円銅貨)ほどの広さで頭骨がなくなり、白い脳味噌が見えていた。その周囲に少し血がにじんでいる程度で、脳味噌の白さが印象的だった。迫撃砲の破片でやられたのだ。その外には、二の腕や胸のあたりに、すり傷程度のものがあり血がにじんでいたが、これは致命傷ではなかった。問題は頭だった。その途端にものは言えなくなったのだろう。呼んでも応えず意識不明、唯、傷の方の手を動かすのみ。見守る以外に方法はなかった。そして一晩生きていたが、翌日に亡くなった。明け方だった。
彼の家とは川向いの近くなので、私の母や妹と彼の母親とが一緒に面会に来て、持参のぼたもちを共に食ったこともあったし、また八木郵便局の電信係で、恋人からの小物を時たまチラッと見せ、我々を羨ましがらせて喜んだり、歌が旨く多少自慢でもあったのか、何か歌えと言うときはよく彼が歌い、私など下手な者は助かったことなど、色々と想い出され、涙がこみあげてき、泣けてなかなかとまらなかった。多くの死を見てき、自分も四六時中その中にいて、死と言うものに麻痺してしまっていたのが、彼のときは別だった。 たまたま壕の外にいた時、運悪く砲撃に遭ったのだ。残留の通信隊長、田沼少尉もずっといて死に立ち会った。
皆が分散して壕にいたが、墓は、その上の方の、傾斜が緩やかで柔らかい赤土の場所を砲撃の合間に大急ぎで掘ったが、それでもゆっくりはしておれず浅かった。それから毛布に彼をくるんで埋葬、田沼少尉と、ごく親しい者数人だけでお経がわりに、「一つ軍人は……」と五ヵ条だけを、それも口早に唱えて弔い、墓標は余裕がなく立てず、盛土を済ますと、すぐ分散、大慌てで壕へ帰った。何時迫撃砲を撃ち込んでくるか分らず昼間は非常に危険だったためだ。
此の頃になると彼等の砲撃は殆んど日勤となっていた。それにしても米軍の爆撃砲撃の量の凄さ。殆ど抵抗も出来ない日本軍に対してこれほどの量を毎日毎日飽きずに惜しげもなく撃ち込んでくるアメリカと言う国の力、物量に唯あきれるばかりであった。
紙なんてものは、もうとっくになくなっており、もっとも此の頃になるとたまに撒かれる降伏勧告のビラを拾うことはあったが、大便に行っても処理は木の葉だ。手を洗うためには遥か下の谷川まで降りねばならず、一々洗うことなど出来ない。しかし、万年新兵の我々は、大体一日に一度は、飯盒(はんごう)や水筒をもち谷川まで降り、炊事の用意をしたので、その時には洗えたし、時には体を拭くこともあった。炊さんは煙が高々と木々の葉を抜けて昇ってゆくので夜しか出来ず、闇のなかで汚れたままの手で飯盒を探り、さらえて食べた。
塩はもう全くなかった。塩分が切れると命にかかわるとの噂もたち、野性の猿を見るとどうして塩気を取っているのかなどと思った。自然の物、植物などには、多少とも必ず含まれているものだと教えてくれる人もいた。塩味のあるものを食ったのは、同年兵だけで食ったあの私の鮭缶が最後となっていた。青物がなく、水の落ちているような岩場の処に生えているズイキの小さいのみたいなものを時たましがむぐらいで、山も高くなると柔らかいような草も無くどうしようもなかった。途中には、ゲリラが拓いたのか切株や大木の転がっている300坪ほどの焼畑があり、とうもろこしの幹だけが残り、探すと春菊や鷹の爪を少し見つけたこともあったが、ここまで高い処へ逃げ込むとそんなものにさえ出合うこともなかった。蛙は下界のこと、蟹も取りつくしたのか谷川におらず、余程たまにデンデン虫がいる程度、もうどうしようもなく生き延びられるような状況でないことは明らかだった。
(中略)
もし、米軍が全面的な攻勢に出れば一たまりもない。何時かはそうするだろうとの大きな不安を心の底に絶えず秘めながら、今日も一日無事だったと言う小安の毎日を送っていた或る日、昭和20年9月1日か2日、何人かの戦友とバラ屋にいた。バラ屋があるぐらいだから大木はなく聞かれた場所で、なだらかと言うより緩い山の斜面といった場所にそれはあった。小柄で色の黒い兵隊からのたたきあげと聞いていた飛行場大隊長だった少佐が来た。そして皆に、日本が降伏したことが伝達され、「従って、ネグロス島の我々も降伏する」と告げられた。
この時の私の気持ち、背負っていた重荷が取り除かれ、ふっと急に肩が軽くなったように感じた。長い長い間、死以外に考えられない毎日だったが、生への希望が生まれ、心が軽くなったので、肉体的にもそんな感じとなったのだろうか。不思議だった。言い終わって色黒の少佐は白い歯を出してにっと笑った。我々もにっこりして返した。そして彼は去っていった。彼も我々と共感する所があったのだろう。広範囲に散在しているバラ屋に、何人かずついる各兵隊に対し、幹部が手分けして伝達して廻っているのだろう。
この先どうなって行くのか、どんな扱いを受けるのか、何も分らぬ今後の不安はあった。宣伝ビラで、食事風景などの写真を見たり、また、降伏勧告のビラでは、国際法により生命は保証するとあったが、実際、敵米国は捕虜というものをどう扱い、どんな生活が待っているのか。然し、唯一つ、これまでと全く違うこと、それは生還の希望が沸き起こってきたこと、これまでは全然生きて帰れるなど考えられず、生命の不安が絶えずある全く希望のない毎日だったが、希望がでてきたのだ。まだ捕虜の生活で、どれほどか、何年か、重労働か何か苦しみは続くだろう。だが先は見えている。何としても生き延びねばならない。このように今までとは明らかに違う一条の希望の光が差し込んできたことは確かであった。
(後略)
大津市 T.I
一億国民総決起号令のもと、当時適齢の男子のほとんどが軍隊に召集され、国内は老人、子ども、女性ばかり、男手のない中、当時働きざかりの女性は、女子挺身隊として出征兵士の留守農家に勤労奉仕で食糧増産に駆り出され、多くの女子学生は家を離れ、不自由な寮生活をしながら軍需工場で兵器の製作に従事したりと、さまざまな場で戦況に一喜一憂しながらの青春をおくったものです。
たまたま、私共の女学校(現在、出雲高校)は戦時、広島に置かれていた軍本部直轄の被服廠(*1)からの求めで軍衣の縫製工場として奉仕することになりました。学校周辺の家庭からミシンを借り集め、教室は急きょ軍需工場となり、主として広島あたりで裁断された軍衣(現在の男性カッターシャツ)を下級生は手縫いで上級生はミシンでの流れ作業。額には日の丸マークの付いた鉢巻きを締めて懸命に奉仕しておりました。3年生の頃、手縫いしたシャツのポケットに慰問文を入れて送り出し、後で検閲されたお礼の返事をもらった友人も居りました。
4年生になると、ミシンでの流れ作業となり、袖、身頃、衿(えり)付け、袖付け、ボタン穴かがり、ボタン付けと仕上げアイロンかけの順でクラス40名が手分けをし、製品は10枚一組に折り重ね、夕方終業前に検査室に運びこみ、クラスごとの生産目標と製品数が競われ一心不乱になって励んだ日々でした。
毎日、午後になり流れが滞った所にみんなで集中し、一枚でも多くの製品を仕上げようと気配りした私たちでした。夏休みなど返上し、連日の暑さも忘れて奉仕の日々に突然変化が起きだしたのは、8月6日広島に原爆が投下された時から、裁断された生地が遅れたりし、南の中国山地を隔てた広島の惨状が身近に伝わってました。
当時、20才で徴兵検査を受けた兄は浜田の連隊に入隊し、同級生のひとりが広島の連隊に入隊した翌日、被爆し体中、焼けただれた重症のまま帰宅させられ、近所の医院に治療を受けに来られました。たちまち町中の皆が山のむこうの広島での惨状を知ることとなり、数日後、手当ての甲斐もなく亡くなったのに皆、愕然としました。あまりにもむごい広島の惨状に言葉もなく、敗戦となり、むなしさとくやしさで涙したものでした。
其の頃、大阪市内で2度も被災した主人の家族は両親と弟妹は島根に帰り、主人は一人、軍需工場と化していた松下電器産業で徴用工の監督官として、ビルマ戦などで投下予定の爆弾を、図案、製図したり見まわったりと、ひたすら勝利を信じて働いていたとのこと。
3月に続き6月の大空襲で大阪市内ほとんどが焼土となり京阪電車も環状線もストップし京橋駅など言葉につくせない程の惨状だったと今も話してくれます。
此の様な状況下、女学生として勉学らしいことは入学後、1年生と2年生の半ば頃迄。其の後の約2ヶ年余、勤労奉仕で全く勉学はなく、そして敗戦後卒業迄の半年も、薄い冊子のような教科書で、内容はもっぱら道徳的なものと、担任の先生の個人的な好みでか樋口一葉の作品等から女の生き方について考えたり学んだりでした。地歴など世界地図などすべて一変し、西洋史は勿論、日本史なども正当な姿は教えてもらえず、混乱と無力感の中、戦後の激流の世をひたすら生きぬいて来た世代でした。
(*1)被服廠:軍服や軍靴を製造する工場
山城町 中野やす子
(1981年頃、京都生協南ブロック発行の平和祈念誌『地球はひとつ』より抜粋)
今年もまた、八月十五日がやってきます。私は、終戦記念日と、南山城大水害における家屋流失と、二つの大きな体験をしております。戦火をくぐった経験こそありませんが、幼な心にも平和を願わないでおられない貴重な体験をして参りました。敗戦後三十六年を数える今日、心安らかならざる思いになっているのは、私一人でないと思います。中学生の時、憲法について学習をした時本当に目の前が明るくなったように嬉しかったものです。母親大会の後だったと思います。「女の人には、赤いのを上げよう。」と蜷川知事から戴いた「ポケット憲法」今も、私を守ってくれる宝として、何時も持ち歩いております。小さいけれど、開ければその重みに、勇気付けられてきたのは、私一人ではないと思います。第二章第九条戦争の放棄。
改めて憲法の学習を広めて、平和を願う力としたいと思います。それにはもう一度、「戦争を知らない人々」のために、私が、戦争中、戦争後に体験してきた生活の一部分でも、書き綴って当時を忍んで戴きたいと思います。
私の家は、京都府相楽郡山城町(旧棚倉村)、国鉄奈良線の棚倉駅から、京都寄りにあるトンネルを出た、すぐ近くにありました。
大工職人の父(明治三十六年生れ)と、母(大正元年生れ)、私(昭和十三年生れ)、妹(昭和十五年生れ)、弟(昭和二十年五月生れ)の五人家族で、緑の山々を背に、三方には広々とした田畑に囲まれ、列車の響きを「子守唄」として貧しいながらも楽しく成長致しました。と申したいのですが、とても、のんびりはさせてもらえませんでした。
終戦前には、どの家族でも男の人はみんな戦地へ召集されました。残された老人、お母さん達が農業をやり、子どもや家を護るためにどれだけの苦労をされたかが今になって分りました。衣食は、勿論配給制度でその上くじ引きです。好きも、嫌いもありませんし「ブカブカ」の服や、運動靴でも、元の生地がわからない程継ぎが当てられても新しいものはなかなか手に入りません。油の配給だったと思います。人数によって量が、繰り上げられるので「赤ちゃんや、お年寄でもうちより一人多いだけで二倍もの油が、もらえるのに。こんな時は、食べんで数が多いほうが得や」と、母や近所のお母さん達が話しているのを聞きました。
昭和二十年始め頃だと思います。政府よりの強制だったのでしょうね。どこの家からも金属製品は全部回収されました。お鍋・お釜・鎌・鍬(すき)・バケツ・仏具、父が大切にしていた「せんとくの火鉢」も、みんな持って行かれました。火の見櫓の半鐘も、神社の馬も、みんな「お国のために」「勝つまでは仕方がない。」と……それに代わって、木のバケツ・木の鍬・土の鍋・釜が姿を現しました。
朝、学校へ行く前に水を入れておいて夕方に釜を洗おうと見れば、底が抜けていてごはんを炊くことができずに、母が近所へ農業の手伝いに行って野菜をもらって帰った時、うす暗い部屋の隅で、私たち姉妹弟三人が泣いていたことが、思い出されます。田舎に住んでいるけれど、田畑のない私たち一家は、農繁期になると百姓の手伝や、子守等をして野菜や米・麦をもらいました。大工である父の報酬も同じことでした。
ヤミの売り出し、買い出しで列車はいつも満員、切符も乗客制限がありまして、乗客の積み残し等たびたびありました。京都から、小学三年生といっている子ども二人が、さつまいもと南京を持って「汽車にのれへんのや」と泣いていましたので、父が、近鉄(当時奈良電)電車の三山木駅まで送っていったこともありました。
お米を腹にまいて持ち帰り子ども達に食べさせていたお母さん。大切な着物を持っては、何度も、何度も頭を下げて物々交換してもらい、やっと手に入れた米や野菜を警官に取り上げられ、取り調べを受けて三日も帰れなかった人もありました。百姓の人々も売り惜しみをしたり、小さめの一升枡を作った人や計る時には、どうすれば重く計れるか?等と研究する人もありました。戦争は人の心まで、冷たく変わらせるものだと痛感しております。
今は、全粒粉とか申して、黒いパンやクラッカー等喜んで食べておりますが、その頃は、フスマといって小麦粉をとったカスの団子弁当や、甘茶のぜんざい、さつまいもの餡や、豆カスやこうりゃんの入ったごはんでも食べられたら幸福でした。
ものを言えば「お国のために」泣けば「兵隊さんのことを思え」と言われ「天皇の噂」や陰口を言えば、「警察へ連れて行かれる」と、きびしく教えられていました。
夜になると、外から灯が見えないように電灯の周りに黒い布をかけ、暗い灯の下で夜業をしている父・母の傍らで煙草巻きをやりました。配給でもらう葉っぱに、一本でも多く欲しいから、梅の葉を混ぜて巻きました。小学一年生の私が巻いた煙草の味は、どんなんでしたかしら?子ども達を食べさせるために、昼間は一生懸命働き、夜はぞうりや、下駄を作ってくれた父に、おいしいお酒を、思いきり飲ませてやりたい。私が大きくなったら、もう見るのも嫌だ!!と思う位の、ごちそうとお酒を飲ませてやるんだと、父母の姿を見ては思っておりました。
「肩を並べて、兄さんと、今日も学校へ行けるのは、兵隊さんのお陰です。兵隊さんよ、ありがとう。」 二列に並んで登校の途中、皆で唄います。兵隊さんは素敵だなあと思っていました。だから、号令・命令・そして服従することに、神経を「ピリピリ」させていても当然と思っていました。
避難訓練・防火訓練等、勉強するより多かったと思います。防空頭巾にモンペをはいて、肩にかけた非常袋には、三角巾・包帯・メンソレータム等を入れておりました。胸には、住所・名前・血液型、学校名等を書いた大きな名札をつけて、何時、何処で倒れていても分かるようにしていました。
田舎の親類を頼って、京都や、大阪市内の人々が疎開してきたり、子ども達と先生だけの集団疎開がお寺や、神社等に来られ、どの教室も一杯で、一つの椅子に、二人が腰かけていたこともありました。
「畑のいもが盗まれた」「柿の実が全部なくなった」という話を、あちら、こちらで聞きました。
教科書も、上級生が使ったのを次々と、貸してもらいます。紙の裏も表も大切な教材です。習字の練習は、新聞紙の上に何度も、何度も書いていました。清書の時、やっと半紙を、二枚もらって書きました。
学校の農園で、さつまいもや、大根を作りました。冬は山へ薪を取りに行きましたが、ストーブも無かったし、窓ガラスの割れた所には、新聞紙を貼り、ガタガタふるえながら勉強していました。
教育勅語なるものを、訳も分からず暗記させられていました。「ススメ、ススメ、ヘイタイススメ」。神の国日本は戦争に敗けたことがない。今に神風が吹くからと、教えられていました。私達は口には出しませんでしたが、早く神風が吹いて戦争が終わってほしいと思っていました。
いよいよ、八月十五日大きな惨劇の跡を残して、日本は降伏しました。待っていた神風は、とうとう、吹いてくれませんでした。女は山の中へ非難させろ!!の声も聞きました。私の家の前を米軍の兵隊を乗せた列車が、毎日通りました。遊んでいると子ども達に車窓から、お菓子やキャンデーを投げては笑っているのを見かけました。ある時は、子ども達が手を振ったのを見て、生のじゃがいもを投げて来ました。その一個が、家の窓ガラスに当り割れてしまったこともありました。
友達の、お父さん、お兄さんが大勢戦死されました。「息子が戦死したなんて信じられません。私を、息子が死んだと言われる場所へ連れていって下さい。主人は戦死したのを信じました。お国のためによく戦って下さったと、お礼を言いました。その代わり、息子は元気で帰って、結婚させて、私は沢山の孫に囲まれてくらすのです。一人息子が、なんで死にますのや。」戦死の公報を持って来られた役場の職員や、町内会長さんに泣き、わめいていたお母さんは、三年前一人淋しく死んでいきました。「息子や、孫の苦労がしてみたい。」といつも話しておられました。
昭和二十二年五月三日は憲法発布記念日です。「自分の正しいことは、最後まで誰の前でも、言い切れる人間になれ、自分だけの勝手は通用しないけれど、女だからとものを言えない人間になるな。」と初めて父は教えてくれました。私の父は財産は残してくれなかったけど、子孫にかけがえのない道標を残してくれました。平和を願う人々と手を結び、父の墓前にも永遠の平和を報告したいと思います。
京都市右京区 廣瀬千壽
昭和18年4月、金沢市内の女学校へ入学した(13才)。あこがれの制服を着て、いよいよ女学校での勉強が始まった。
国語、数学、英語、地理、歴史、理科、図工、体操、書道、家政、礼法、などがあった。秋には楽しい運動会もあったが、それが最後となった。
戦争の拡大による労働力不足を補う必要から、学徒勤労動員令が発令され、上級生達は女子勤労挺身隊として、工場へ駆り出されていった。その中には、金沢より遠く離れた舞鶴海軍工廠へ出動した人達もいた。
昭和19年、2年生になると、英語は書くことのみ、声に出してはいけないとなり、次第にその時間もなくなっていった。かわりに勤労奉仕といって、食糧増産のための農作業がふえ、運動場も、校外で借りた荒れ地も芋畑となり、制服もモンペ姿になっていった。体操も、なぎなた、剣術、弓道が中心になった。
夏休み前に、金沢師団司令部よりの要望によって、数人が司令部内の倉庫(金沢城内)で陸軍地図の整理、地方発送の仕事にあたった。
昭和20年1月、3学期になると、全員市内の工場で、風船気球爆弾作りに出動した。気球に爆弾をつり下げ、偏西風にのせてアメリカ本土へ飛ばすというものだ。その風船部分は大きな大きな和紙を7〜8枚コンニャクのりで貼り合わせる作業だった。それは2年生の終わりまで続いた。
20年4月、3年生になると別の工場へ移動した。飛行機製造である。私の現場は、特攻機「紫電改」(ずっと後になって知った)の胴体作りであった。ジュラルミン板に鋲を打つ作業で、初めて見る電動鋲打ち機にびっくりして、体をふるわせながら穴をあけたり骨組みに鋲を打ったりした。小さな女学生が更に体を小さくしなければならない程狭い機内だった。一直線に鋲が並べられないことに心を痛めつつも、必死の思いで手をゆるめることなどできなかった。男子工員の注意は、
「空中分解をおこすぞ!!」
というきびしい大きな声だった。
作業については家でもよそでも一切しゃべるなといわれた。同級生の作業も色々で、胴体、主翼、尾翼、小さな部品、素材のジュラルミンの旋盤作業などに分かれていた。
工場での勉強は1日1時間のみ、国語、数学だった。休み時間に歌うのは、「同期の桜」「海行かば」のようなうたになっていった。
当時、都会の大工場は空襲でやられていたので、金沢の小さな紡績工場を軍需工場にして、男・女学生に作業に当たらせていたのだろうか。空襲警報は毎日出されていて、避難しながら上空を飛ぶB29の行方を気にしていたが、一度も爆弾を落とされることなく、生きのびられた。
8月15日、その日は女学生は休みで、天皇陛下のラジオ放送を聞くように言われていた。田舎へお墓参りに行くと、伯父が両手を上げて萬歳のマネをしながら、「戦争に負けた」と言うので私はそんなことウソや、と思った。翌日久しぶりに学校へ行った。
それからの日々は教科書を燃やしたり、墨で黒くぬりつぶしたり、今までの教育の否定から始まった。
戦後も食糧増産の農作業はつづき、女学校の5年間、本当に勉強できたのは、1年半から2年位あったかなかったかだと思う。
南丹市 K.S
ヒューンと云ふ爆音。飛行雲が白い線を残して行く。ラヂオから、「臨時ニュースを申し上げます。ただ今、どこ、どこで、空襲警報が発令されました・・・。」
一瞬、緊張が走る。早ようせんと。
防空頭巾をかぶり、物陰に身をかがめ、両手で目と耳をおさえて、警報解除になるまで、じっと待っていました。
あれは、戦争も末期の頃だったと思います。
母と山へ柴刈りに行っていました。ヒューンと云ふ音がしたので、「アッ、あれはB29やわ」と云って、林の中にうずくまりました。「舞鶴の方へ行ったな・・・。」と暫らくして又、ヒューンと頭の上に音が聞こえてきた・・・。
とその時「ドカン」と大きな音、雷が十も二十も一度に落ちた様で、ビックリして動けなくなってしまいました。「早よう帰らなあかん!」と母の声で、やっと立ち上がり、それからどう走って帰ったか、わかりませんでした。
家に着いた時には、近所の人達が、「山に爆弾を落とされた!」と大さわぎでした。なんと、私達の行っていた山の裏側だったのです。もう怖くて、ふるえがなかなかとまりませんでした。
あくる日、近所の人たちについて、私も山へ行ってみたのです。松林の中にゴッソリと大きな穴があき、赤い土がむき出していました。周りの木は根こそぎ倒され、折れ、メチ ャメチャでした。何て恐ろしいこと。私は母に「うちの家がゴッソリ入る様な大きい穴やったで!」と話したことを、覚えています。
大人の人達の話では、「B29が帰りに爆弾を捨てて行ったんや、火事にならなくてよかった!」と云って居られました。
あれから60年余りたった今、あの山はどうなっているのだろうか、穴に木が生えているだろうか?と思い返しながら書いております。子どもにも孫にも話して聞かせました。・・・色々なことも。
戦争は絶対に反対です。
京都市北区 北村令子
昭和18年4月、小学校に入学しました。入学式で校長先生のお話は「日本は戦争をしている。戦況は敵の軍艦何隻沈没、日本の軍艦は・・・」と日本優勢のお話を大きな声で話されました。何もかも初めての団体生活の始まりに、新しいランドセルの私は大きな衝撃を受け、未だにその校長先生の顔と声の響きが残っています。
学校の勉強は鉄砲を持った兵隊さんの絵が多く描かれ、歴代の天皇陛下の名前が言え、教育勅語がスラスラと言える子がクラスに何人か居ました。「朕惟フニ我ガ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」遠々とあります。学校で式があると、御真影と言って天皇陛下と皇后陛下の肖像写真を見ない様に最敬礼し、この教育勅語を頭を下げながら聞くのです。先生は教壇に竹のムチを置いていて「起立」と号令をかけると皆、何をしていても一斉に立ちます。登校途中に神社仏閣があると必ず、正面を向いて頭を下げます。
一年生の間は飛行機が空を飛ぶこともなかったのですが二年生になると防空壕を掘る様に言われ敵の飛行機が飛ぶ様になりました。ラジオも「ピーグーポー」と音がして熊野灘沿岸や紀伊水道から敵機襲来を知らせ、胸に名前の書いた服を着、防空頭巾を肩から掛け、警戒警報なら準備を、空襲警報なら防空壕に子どもは入りました。母親達はモンペをはき割烹前掛けを着、小屋根に置かれたムシロに向かってバケツリレーを練習し、火消し棒を振り廻しました。空から落とされた爆弾に対処する為と町内で火事が起こった時の団結の為だったと思います。二年生の夏休み蛍が飛ぶ頃より空に日本の飛行機と型の違ったのを見る様になり音も違いました。B29です。夜の空もサーチライトが行き交い、家の電灯も黒い袋がかぶさる状態になり、学校でも防空頭巾の綿の量を多くし、夏でも着る服は色のものは駄目で皆草色に染められました。
食べるものもなくなり、お菓子屋さんには、空の入れ物が並んでいました。花は野菜に家の塀には、カボチャのつるがのびて、配給が少なくなったお米の中に入れられました。サツマイモ、大根、ひじき。お豆さんなら豆御飯で上等でしたが、つらいものがあり、いつもお腹をすかせていました。
二年生の三学期、登校中の生徒が撃たれ、同級生の家に爆弾が落ち、近くだったので生きた心地がしませんでした。警報が鳴るか鳴らないかで子どもの私達も布団の中に居ました。屋根スレスレの様な、バリバリとこの世の音とも思えない響きでした。私の住んでいた所は大阪の少し南、八尾でした。大阪の大空襲の時は大阪の方の空が夕焼けの様に赤く、その夕焼けはいつ迄も暗くならないものでした。
戦況の悪くなるなか、お腹の赤ちゃんを守るため父親を大阪に残し柏原の親類に疎開しました。百姓の家でその牛小屋を借りました。田舎の小学校も運動場は全部畑と化し私たちは畑の間を行進しました。飛行機は来ませんでしたが、勉強時間に山に馬草を取りに毎日行きました。軍馬に干草として送るそうです。戦争に大人も子どもも“勝つ迄は”と文句も言わず頑張りました。昭和十六年戦争が始まった年に生まれた私の妹は、白い障子から明かりが差す父親も見守るなか、高らかな産声をあげました。昭和二十年に生まれた弟は牛小屋で、栄養失調の母親から難産の上、産声を上げる力もなく生まれました。父親は仕事上、子どもより日本を守る方に取られ帰ることもできませんでした。小学校三年の私は起き上がれない母親を助け、小学一年の弟、四才の妹、生まれたての弟の洗濯から食事と大変でした。特に洗濯は今の様に洗濯機はなく、手でします。特にそのころ目に焼きついている光景は、生まれた赤ちゃんに配給される粉ミルクを妹が欲しがった姿です。着物を尻からげして、ぞうりをはき、泣きました。お菓子もなく甘いものなどどこにもありませんでした。
戦争が終わって元の家にもどりましたが食べるものはますます不足していました。警報が鳴ることもなくなり安心して、トンボ取りに外で遊べる様になりました。町内にはお兄ちゃんが無言で、隣のおじちゃんも帰って来ませんでした。食べ物がないのは作っている人が戦争に行って作れないからだと、紙でできた地球儀を買って来た父親が説明してくれました。地球儀は戦争の間売ってなかったそうです。アメリカと戦争していること、そのアメリカの大きなことを知りました。
小学六年生になっても食べ物は充分になく、外国からの外米や小麦粉、粉の醤油、バケツ一杯の砂糖等々めちゃめちゃでした。父親と買い出しに田舎に何度も行きました。衣食に関しては配給制で、果物も配給で、全家庭に行き渡らないことが多かったと思います。着るものは大人の着物が子どもの服となり皆着た切雀の状態でした。栄養失調から、弟等はオデキが体のいたる所にでき、洗剤の不足から、のみ・しらみがはびこりました。私の中学生になっていた時も学校に噴霧器が持ち込まれ全校の生徒の頭に吹きかけに来ました。まだその時運動靴をはいている者は少なかったと思います。
物心がついた頃より世の中は戦争で、律儀な両親は国のおおせの通りに子どもを育てたと思います。父親はひたすら子どもを軍隊式に言うことを聞かせ反発することを許しませんでした。家ばかりか学校もその通りで皆、先生の言うことを聞きました。世の中も“ほしがりません勝つ迄は”が行き届いた世の中でした。今から思えば、良くできた、わるく言えば、こわい世の中だったと思います。自由な空気を吸って大人になっていた両親等よく我慢したと思います。我慢したから、いけなかったんだとも思いますが、戦争は破戒だと思います。小学低学年で見た大阪は大きな都会でした。高学年で大阪を見た時、瓦礫の山で恐ろしい思いをしました。大人のすることの恐ろしさです。戦争は人と人でするものではない、ということが言えます。狂わない人間に皆で育てていかなければならないと思います。
綾部市 森幸子
私は昭和15年8月5日生まれの67才の女性です。私が5才の時空襲にあい、小さいながらも今でもはっきりとその時のことが思い出せます。いつか自分の子どもに私の戦争体験を書き残してと思っていた矢先、コーポロさんの募集を知り、すぐペンを取りました。
私の住んでいた、実家の豊中は、伊丹飛行場が近いので、ずいぶんひどい目にあいました。私の兄は、爆撃にやられるところ、洋服屋さんの陳列ケースにへばりつき、難をのがれました。空襲警報のサイレンが鳴ると、私と母と兄が、乳母車に貴重品を積み、私をその上にのせ、坂道の竹ヤブの防空壕に急ぐのです。早く入らないと爆撃にやられる。大きな防空頭巾をかぶり、やっとの思いで中に逃げ込む。B29の焼夷弾の落とす音が、耳に入り、思わず耳をふさぐのです。家の近くに爆弾が落ち、電線に女性の服がひっかかっていたのも見ました。とても不気味でした。
食事は、お米がないので、ジャガ芋の小さい青い、今なら捨てるようなものを、蒸し器で蒸し、塩をつけて食べていたのでした。なんの不足も云わずに美味しそうに食べていたのです。
私が4才の時に父が病気で亡くなり、戦争中もことゆえお葬式はしなかったが、四角の棺桶に父が座って入れられるのを、うっすら覚えております。泣きもせず、ただ不思議そうに見ていたそうです。
いよいよ戦争もひどくなり、家もとても危なくなってきました。母と兄と私で、母の親元大阪の今里というところに避難することになりました。そこそこの荷物を大八車に積み、今から考えると、電車もなく、小さい私と8才の兄で、よく向かったなあと思います。途中大阪は空襲で全滅し、どうすることもできず途方に暮れてしまいました。そこへ幸いのことに親切な親子連れのお父さんと息子さんが、私達の荷物を豊中の家まで、運んでくださいました。その時「お名前は」と聞いていたならお礼のしようもあったのですが、実家の母は亡くなる迄、何十年もたつのに大変気にかけておりました。今ならテレビ、ラジオ等ですぐ調べてもらうこともできるのですが、残念でした。大きな荷物を運んでいただいたので、私達はとぼとぼと豊中まで帰ることができました。今思うと一番小さかった私が、てこずっていたに違いないと思うと、母と兄にすまなかったと思います。
戦争が終わり、私の亡父の弟が、海軍から命からがら帰ってきました。自分の家は、空襲で丸焼け、嫁は病気で亡くなり、長男は山下方面に学童疎開、弟はお手伝さんのオキクさんと逃げまくっていたのでした。どこにも行く所がなくて皆な揃って兄のいる豊中に帰ってきました。それから私の家で本当の親子兄弟のように大きくなりました。
兄達は、義父が海軍で上海に行き食べるものも十分あり、自分が通った後から爆撃され、今日元気で帰れたのはとてもありがたいことだといつも口ぐせでした。戦艦三笠の友の会に入り戦死した友達の供養をしていたのでした。
私達はいろんな事情があったお陰で、一生で味わうことができない位大きな経験をたくさんし、又それで強い心の持ち主になれたのです。
もう義父も実母もいなくなり、本当の兄弟のように育った兄も昨年一人亡くなりさびしくなりましたが、孫も増え、孫が大きくなったら、戦争の話等してやりたいと思っております。
今日、現在20代の人達と共に現役のオペレータとしてがんばって働いております。まだまだ若い人には負けたくないのです。これも母親の苦労をみて育ったことで、十分感謝したいと思ってペンを終わらせたいと思います。
食料品が入手困難な時期の日々の献立と入手の経路について
(昭和18年〜昭和20年3月)
長岡京市 山田啓子
当時主食の米は一人一日分の量が決められており米穀通帳なるものが各家庭に配られて、これなしでは一粒たりとも米などは買えない状況であった。引き続いて塩、砂糖、味噌、醤油などの配給帳が交付された。その他の生鮮食料は市場への入荷量によって一家庭への配給量が決められ、隣組を通じて知らせがあり急いで買いに行く。二、三枚のハムが買えるとなると十重二十重の行列であった。早朝5時の一番の市電で駆けつけ並んでも錦市場のかまぼこ屋では買えたり買えなかったり。当時に錦市場で売られていたものは真っ黒な干したなまこ。指ほどに小さい台湾産の干したバナナ、輸出ができなくなったままごと用の洋食セット。
場所は、京都市内。家族は、夫は出征中で留守。妻、幼児、夫の弟二人(大学生)彼らは週末毎、休日毎に神戸の実家に帰省、その度に配給通帳、出入の届け出が必要であった。
(昭和11年に結婚されて以降、ずっと日記・家計簿をつけていらっしゃいました。その一部を紹介いただきました:コーポロ担当)
1943年(昭和18年)
2月15日(月曜)
夕食:鱧のバター焼き、もやし炒め、水菜のひたし。
弁当:かまぼこ、鱧照り焼き、水菜
入手したもの:配給品、卵、ほうれん草、ねぎ、計八銭 鱧は朝から魚屋に並んでくじ番号10番で当たった。1円71銭。
3月6日(土曜)
夕食:ふか煮付け、たまねぎ炒め、白菜ひたし。
入手したもの:切干大根(18銭)、ジャガイモ100匁、にんじん2本。酒かす、ちくわ2本は
いただきもの。魚屋で並んだが、くじにはずれ番外くじには大勢殺到し、止める。
4月21日(水曜)
夕食:鯖と菜っ葉の煮付け、鱧とねぎの丼。
弁当:ぶり照り煮、もやし
入手したもの:蕗10銭、鯖一尾、ぶり100匁、あみ100匁。魚屋三軒をかけ持ち歩いて朝の9時から午後3時までかかった。
5月1日(土曜)
朝7時に家を出てバターを買いたいと明治屋の前に並んだが入手できず。
6月4日(金曜)
朝7時、市場の魚屋にくじを引きに行き鱧と鯖が買えた。
6月7日(月曜)
朝7時半家を出て、明治屋の前に並ぶ。バター半ポンド入手。
6月15日(火曜)
夕食:鯖ソテー、もやし、エンドウ、鱧と玉ねぎの卵とじ、きゅうりもみ。
弁当:鯖てんぷら、玉ねぎ炒め、エンドウ。
入手したもの:玉ねぎ、もやし、大根、きゅうり、卵10個(病人用として医師会から許可が要る)かまぼこ、エンドウは頂き物。鯖,鯵は魚の特売日の12日に入手。米7合炊く。
8月20日(金曜)
夕食:ソーセージ、じゃがいも、きゅうり、冬瓜葛煮 。米5合炊く。
弁当:肉飯、じゃがいも
入手したもの:なす、きゅうり、枝豆(車引いてくるおばさんから)60銭。肉は前日配給30匁
ソーセージ1本は前日入手3円60銭。
10月14日(木曜)
夕食:豆腐コロッケ、干し海老、ねぎ、菜っ葉炒め、豆腐清汁。米5合炊く。
弁当:卵焼き。干し海老、こんにゃく煮付け。
入手したもの:豆腐2丁、松茸、大根、白菜、醤油、パン2斤、卵3個(配給)。
12月15日(水曜)
夕食:白菜、大根、ねぎ、にんじんの汁。鮭缶ジャガイモのコロッケ。大根の塩もみ。米6合炊く。
入手したもの:白菜、大根、乾燥卵(3個)3円46銭。大根10本、蕪5個(農家より)2円。
1944年(昭和19年)
1月15日(土曜)
夕食:かゆ、目ざし焼く。
弁当:ごぼう、小芋の煮付け。塩鮭。
入手したもの:米4合、蕪1個、干しいわし(当日配給)31銭。
2月15日(火曜)
夕食:肉、水菜、ねぎの煮物。白菜ひたし。米7合炊く。
弁当:ちらしずし。
入手したもの:肉50匁、片栗粉、大根、にんじん。
3月15日(水曜)
夕食:オムレツ、マカロニと玉ねぎの炒め。白菜ひたし。米4合、大豆糟1合、マカロニ手づかみ4はいを合わせて炊く。
弁当:塩鮭、れんこん煮付け。
入手したもの:水菜、6銭。マカロニ、塩、鮭は妻の実家のある新潟より。
4月15日(土曜)
夕食:もやしとほうれん草の炒め飯。菜っ葉の煮付け。米3.5合と切り干し
を入れて炊く。
弁当:ねぎ入り卵焼き。もやし炒め。
入手したもの:蕗、せり、卵3個。切り干しはお隣から頂く。
5月15日(日曜)
夕食:にしん、ねぎ、なっぱの煮付け。大根みそだれ。ちしゃの酢のもの。
弁当:いかなご煮付け。菜っ葉炒め。
入手したもの:米7.5合。干しにしんは12日配給、55銭。
いかなご14日配給。筍、とろろこんぶ、ほうれんそう、ちしゃは隣人から頂く。
6月15日(木曜)
夕食:キャベツ、玉ねぎ炒め、カレーソースかけ。きゅうり、キャベツの酢味噌和え。米8合
炊く。
弁当:干しにしん煮付け、玉ねぎ炒め。
入手したもの:玉ねぎ6銭。キャベツ、きゅうりは農家から買う。
7月15日(土曜)
夕食:にんじん、玉ねぎの炒め飯。ジャガイモ、三度豆、ナスの煮付け、きゅうりの酢のもの。米4.5合、豆1.5合混ぜて炊く。
弁当:玉ねぎ、三度豆の炒め飯。ナスのしぎ焼き。
入手したもの:かぼちゃ6銭、きゅうり、ナス、三度豆、計75銭。
8月15日(火曜)弟達は夏季休暇で不在
夕食:かぼちゃ煮付け、しいたけと玉ねぎ、海苔の清汁。米2.5合、豆1合混ぜて炊く。
昼:玉ねぎ入りかぼちゃのスープ。
入手したもの:隣組の畑からかぼちゃ2個。配給品なし。
9月15日(金曜)
夕食:ナス、菜っ葉、そーめん炒め。菜っ葉ひたし。はんぺんとつまみ菜の清汁。米5.5合、台湾豆1合、大豆1合混ぜて炊く。
弁当:にしん煮付け。焼きなす。つまみ菜。
入手したもの:ナス100匁、畑から蕪の間引き菜。
干しにしん9日配給。
10月14日(土曜)
夕食:ナスじゃがいも入りの炒めうどん、ずいきと菜っ葉の煮付け。米5.5合と干しうどん合わせて炊く。
弁当:塩マスとねぎの炒め飯。里芋煮付け。
入手したもの:菜っ葉、柿。
11月15日(水曜)
夕食:白菜、大根、ねぎの煮込み。大根酢のもの、ねぎとすいとん汁。米5合に芋の茎を入れて炊く。
弁当:お好み焼き。こんにゃく煮付け。
入手したもの:すぐき菜、たくあん
1945年(昭和20年)
1月15日(月曜)
夕食:鯖と大根煮付け。白菜酢の物。米6合炊く。
弁当:鯖と大根、白菜。
入手したもの:すぐき21銭。鯖は前日に半尾配給。
2月14日(火曜)
夕食:ほうれん草、里芋、大豆糟のお好み焼き。すぐき塩もみ。米4.5合豆糟1.5合、麦2合を混ぜて炊く。
弁当:塩鮭、ほうれんそう煮浸し。
入手したもの:ほうれん草7銭、塩鮭は神戸の実家より当日届く。
3月14日(水曜) 大阪大空襲
夕食:切り干し大根煮付け、干し鱒入りうどんあんかけ、ねぎ、豆腐の煮込み。
弁当:炒り飯。
入手したもの:前日にきり干し、豆腐、2.5丁、ボラ1尾、米7.5合。
3月17日(土曜)?
神戸の大空襲によって実家全焼。弟たち二人はとりあえず両親の疎開先へ帰った。妻(29歳)
娘(5歳)は4月妻の両親のいる新潟へ疎開。京都を離れた。
新潟に於いても終戦直後の食糧難は困難を極めた。主食として米、さつまいも、かぼちゃ、等が配給された。佐渡で採れた米を新潟に輸送する途中、船が沈み、海中に沈んだ米が配給された。そのどぶ臭さは天日に干し、ひき肉機で砕き、せんべい状にして焼いても取れなかった。まさに煮ても焼いても食えない代物であった。
調味料の配給がなくなり、塩は海水を汲んできて火にかけて煮立てて結晶させて手に入れた。家族で山に行き雑草の葉を集め、茹でた。港の地引き網で上がった鰯の値段は日々天井知らずの上りようであった。醤油はびんの中に薄切りのこんぶがにょろにょろと浮いている薄い茶色の液体。統制が利かなくなったので金さえ出せば闇の物資は法外な値段で買うことができた。
1941年(昭和16年)
米八升:3円52銭
京都市電:6銭
パン一斤:17銭
新聞一ヶ月分:1円20銭
清酒2合:44銭〜52銭
葉書1枚:3銭