ブックタイトルbookcopolo2008

ページ
6/16

このページは bookcopolo2008 の電子ブックに掲載されている6ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

bookcopolo2008

平和への想いをつないでいくために私たちの戦争・被爆体験談戦後75年が経ちました。戦争・被爆体験者は徐々に少なくなり、薄れゆく戦争の記憶を後世に語り継ぐことが課題となっています。京都生協では戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いをつなぐ取り組みとして、コーポロ5月号で戦争・被爆体験談を募集しました。ご応募いただいた投稿の中から4人の体験談をご紹介します。今年もたくさんのご応募、ありがとうございました。第1回大阪大空襲の記憶京都市山科区赤星玉英(96歳)75年も前のことですが、今も鮮明に思い出します。昭和20年(1945年)3月13日夜11時前、眠りかけたその時に空襲警報が鳴り響きました。とにかく支度を、と起き上がり、普段の着物を着て、生後10カ月の長男を背負い、夫の両親のいる階下へ降り、床下に掘られた防空壕へ入りました。しばらくすると、ここは危険らしいから出るように言われました。夫と義父はその場に残って、私と義母は近くにあった鉄工所の防空壕へ行くと、大勢の人が集まっていました。間もなく爆音が聞こえ、フットボールのような大きな焼夷弾がバラバラと降り、まるでたき火を燃やすように家々が焼けていくのを見ました。2階建ての一軒家が3分ほどで焼け落ちました。幸い、鉄工所の方には焼夷弾は落とされなかったので体は無事でしたが、家はまる焼けで、一瞬のうちに着の身着のまま、無一文のありさまになってしまいました。桜橋の義母の実家へ行ってみようとなり、地下鉄の大国町駅へ行くと、来る電車はみな梅田方面を目指す人で溢れかえっていました。朝まで待っても乗れそうにないので、地下から上がって夜中の御堂筋を歩いて行くことになりました。トボトボと歩く途中で犠牲になって倒れている人につまづき、さらに歩いていると、軍隊がそんな亡くなった人をトラックに乗せているそばを通りました。朝方、ようやく桜橋の家に着くと、義父と夫も無事に辿りついていました。やっと子どものおしめを替えたり、お乳を飲ませることができました。そのころになって、京都から嫁入りに持ってきた着物は何十枚も躾糸がついたまま、灰になってしまったことが胸に浮かんで、空しい気持ちになりました。その後、義父は警察へ行って大学ノートの切れ端に書かれた「家族5名」という戦災者の証明をもらってきました。それを私は、京都に戻ってきた今も大事に持っています。06コーポロ2020年8月号