平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

1945年8月6日の朝に花垣ルミさん

  • 被爆

よく晴れた夏の日の朝、8時15分17秒。赤ちゃんからお年寄りまで何の罪もなく何も知らない市民達の上に、アメリカの爆撃機B29が1個の爆弾を投下した。当時5歳だった私は、家の向かいにある幼稚園をサボり2階で母が作ってくれた大好きなお人形と遊んでいた。
となりの部屋には病気のおばあちゃんがいた。
突然、地面が持ち上がるような振動と熱波で近所の家屋も一瞬にして倒壊し火災が発生。窓枠と飛んできたタンスの角に頭を挟まれた私の視線の先に、弟をおぶった母が庭の松の木の根元に倒れていた。母は、すぐ立ち上がり私に気づいてくれた。ベットごと窓際で止まっていたおばあちゃんを、台所にいた叔母が足に怪我を負いながらもリヤカーを持ってきて乗せ、ご近所の人たちと500mほど先にある竹やぶに避難した。竹やぶは、すでに、怪我や火傷をされたかたでいっぱい。竹やぶにあった養鶏場も破壊され、生き残った鶏が傷ついたおじいさんをつつき、母が棒切れで追い払ったのだが、なぜかそのシーンだけは記憶に残っていた。
竹やぶに火がついて私たちは、三滝の山に避難した。瓦礫の上で赤ちゃんを抱っこしたお母さんに母が「一緒に行きましょう」と声をかけると、その人はその前を指さし「あそこに3歳の息子がいます」。皆で探したけれども瓦礫に阻まれ分からず。この母子は無事に生き延びたのだろうかと今も想う。進む先に、黒い大きな円形状の物体の中で、水道管が破裂したのだろうか水が吹き上がっているのが見えた。近づくと、黒いかたまりは亡くなった人たちだった。今さっき使っていたであろうお膳はひっくり返り、回りには桃太郎の絵があるお茶碗やミルクカップ、木の玩具、手作りのお人形が炎も煙りも見えないのにジブジブ燃えている。怖い。
三滝の山裾に着き、「おばぁちゃん」と呼んだ私を見るなり祖母は、ワァッと泣いた。訳も分からず私も泣いた。
「お母さん、豊ちゃんがかわいそう」
「アァ、ごめんね、ごめんね」
母は弟をおんぶしているのを忘れるほど避難に必死だった。慌てて背中から下ろした弟は、グッタリして呻き声を出していた。原爆が落とされる直前に空襲警報があり、その時からずっと母の背中にいて、おっぱいもオムツも替えてももらえず半日以上。身体はただれ、オムツを外すとお腹からお尻まで皮膚がめくれていた。身体を丸めて小さな声で泣いていた。どんなに痛かっただろう。母が着けていた割烹着を裂き、救護員がくださったお茶で流し、オムツを当てた。
いつの間に眠ってしまったのか、異様な臭いに目が覚め、ボーッと見ていた。ほんの10m先で、木片を組み合わせ、真っ黒の遺体、赤黒くゴムボートのように膨らんだ遺体、大きいのも小さいのも燃やしていた。
「見ちゃダメ」
母が私を抱き締めた瞬間、気を失った。意識が戻った後も58年間、私の記憶は戻らなかった。
2003年8月、生協からの呼び掛けで初めて広島の慰霊式典に参加。その報告書を書いている最中、灯篭流しの場面を考えているときに58年間失っていた記憶が戻りはじめた。
この世から核兵器が廃絶されるまで頑張らなければ、原爆で非業の死を遂げられた方々に申し訳がたたない。