平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

幼き日の必死の思い出PN.八郎兵衛さん

  • 空襲

明治43年生まれの父は、第二次世界大戦に2度にわたって出征し、中国大陸で瀕死の重傷を負い、傷痍軍人となって辛うじて帰国。東京の陸軍病院に長らく入院していたが、何とか丹後へ戻ることができた。散弾の破片は太股の辺りに残ったままで、寒くなると痛むと言っていたのを覚えている。
私が5歳のとき、米軍のグラマン戦闘機が突如来襲し、目の前の海上すれすれまで急降下した。あまりのことに一体何が起こったのか分からず大騒ぎになった。その日、村民こぞって近くの竹薮に逃げ込んで一晩を明かし、翌日はさらに遠くの森へ避難して、また一夜を明かした。だが、なぜか父だけは玄関先に立ち尽くし、敵機を睨みつけて避難しようとはしなかった。
幸いにも死傷者は出ず、村民全員無事であったが、頭上に降りかかるバリバリというものすごい爆撃音は、今に至るまで耳の底に残っている。2、3歳の子の火が付いたように泣き叫んでいたその声とともに・・・。
家々の白壁は、すべて黒く塗り潰された。

小さな漁村に過ぎない伊根村がなぜ攻撃に晒されたのか?その当時、伊根湾には全長125mの潜水母艦「長鯨」(ちょうげい)が避難入港しており、それを探索して宮津方面より米軍のグラマン機が来襲したのであろう。村人たちも必死でその巨体を隠すべく、青島に生い茂る、切ってはならない御神木までも切り倒してその姿を覆ったが、キリモミ状態で攻撃してくるグラマン機に爆撃された。乗員105人は艦上で、あるいは爆風で海に吹き飛ばされて戦死した。その亡骸は青島を近くに望む小高い山の中腹に建つ慈眼寺に葬られ、後に慰霊碑が建立された。
中央部、司令塔あたりを爆撃された「長鯨」はその後、軍港である舞鶴港へ曳航され、戦後は復員兵の輸送の任務を果たしていたとのことである。

伊根湾における空襲は、昭和20年8月15日の終戦日まで、わずか15、6日前のことである。実に無惨な戦争であった。二度と繰り返してはならないと切に思う。