平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

戦時下の思い出宅間正夫さん

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私の小学校入学は、日中戦争が始まった昭和12年(1937 年)。国語の教科書も「ハト、マメ」の平和調から「ススメ ススメ ヘイタイススメ」の軍国調に様変わりしました。学校の正門前に建てられていた奉安殿※1には天皇・皇后の御真影が納められ、陸軍記念日などには校長が恭しく持ち出し、全生徒・教員の前で教育勅語※2の朗読のあと、訓示が行われました。
私が4 年生の時の体育の時間、銃剣術の指導で「みんな生ぬるい、そんなことで敵が倒せるか、こうやるんだ!」と、木銃でみぞおちを一撃され、数時間意識を失いました。このような「人殺し」教育が平然と行われ、学校内でも地域でも何ら問題にできない状況でした。
学芸会では「出てくる敵は、皆々殺せ!」との進軍ラッパが響く中に「肉弾三勇士」※3が勇ましく登場するなど、お国のために喜んで戦死することを名誉と思う人間づくりが猛烈な勢いで進められていました。これが、今も一部の権力者の中で強調されている「愛国心」教育そのものであると、改めて警戒する次第です。
中国侵略から、南方方面侵略の太平洋戦争に突入していた時期の中学校生活。校内に入る際には隊列を組み、正門前(旧園部城)に陣取っている配属将校に「頭(かしら)ー、右!」の号令で敬礼して校舎へ。服装などの厳しいチェックで、ビンタが飛ぶのも常時のこと。朝礼では校庭に整列し、君が代の斉唱と皇居の天皇に最敬礼。「教育勅語」と「軍人勅諭」※4の朗読など、軍隊予備校のような行事で生徒たちは「聖戦に命を捧げるための人間づくり」のためにマインドコントロールされる毎日でした。
戦争の激化とともに、授業の内容も毎日が戦技訓練、勤労奉仕、兵器工場への動員など、学業は一切なし、戦争協力のための「国民精神総動員」※5体制の学校生活でした。
勤労奉仕の作業では、稲刈り、脱穀手伝い、湿田の排水溝工事、木材運搬、荒れ地の開墾作業などの連続で、勉強する意欲も出てこない生活が続きました。
当時の大本営発表※6 では「南方の各地で戦果を挙げている」との報道の一方で、学校近くの竹藪を開拓して、大阪の軍事工場を疎開させるための重労働が課せられてきました。竹藪の伐採と開墾に続いて、園部城での建築用資材の積み下ろし作業。真夏の炎天下、水も飲まずの過酷な労働のため、次々と倒れても十分な手当てもされずに放置される始末。
そして迎えた終戦の知らせにほっとしたのと同時に、一緒に作業をした朝鮮人労働者が喜び合う姿が複雑に映ったものでした。

※1 奉安殿・・・戦前の日本において学校などに設けられた、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物
※2 教育勅語・・・戦前の日本における教育の基本指針。戦争への国民動員、戦争国家化、植民地支配の要とされた
※3 肉弾三勇士・・・1932年の第一次上海事変で敵陣を突破して自爆し、突撃路を開いたとされる3人の兵士を指す言葉
※4 軍人勅諭・・・明治天皇が陸海軍の軍人に授けた勅諭。軍部の精神的支柱を確立する目的で起草された
※5 国民精神総動員・・・内閣が行った、国家のために自己を犠牲にして尽くす、国民の精神(滅私奉公)を推進した運動
※6 大本営発表・・・太平洋戦争中、大本営(戦事の天皇直属の最高統帥機関)が国民に向けて発表した戦況に関する情報。末期には戦況が悪化しているのにも関わらず、優勢であるかのような虚偽の発表を繰り返した