平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

亡き祖母が記した戦争の記録京都府京都市東山区 倉田伴子さん

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「昭和の初めに支那事変が起こり、日本兵が満洲へと送られました。そして中国と戦い、4年が経った昭和16年の12月8日に、英米と戦うことになりました。軍人として出ていく人も、家を守る私たちも、一生懸命でした。時には、鉄瓶や火鉢などを寄付しました。痛々しい軍人さんを見て「私たちのために戦ってくださった」と思い、目頭を押さえていました。
昭和20年の初めころには、アメリカ兵がB29という飛行機に乗ってきました。広島や長崎などに爆弾を落としました。広島は焼け野原となり、人も車も家もが焼け出されました。頭の毛に火がつき、または着物にも火がついて真っ黒になって、あちらにも、こちらにも人が倒れて死んでいました。実に悲惨なことでした。
8月15日、天皇陛下様が白旗を出されて、戦いは終わりました。それから後も、物が不足で難儀しました。」

―これは、息子が小学4年生くらいの時におばあちゃん(私の義母)に頼んで書いてもらったものです。37年前くらいで、今は亡き義母。当時80歳くらいでした。