平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

忘れられない、忘れてはならない引き揚げの記憶手塚良子さん

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私の兄弟姉妹は9人で、全員が朝鮮(韓国)で生まれています。長姉は18歳、末っ子の妹は生後3週間目に生地を離れ、引き揚げ※1てきました。
引き揚げの日から半世紀以上も経っているのに、当時10歳だった私の脳裏に忘れられないものとして残っていて、情景までが浮かび上がってきます。姉がそれぞれの身の丈に合わせて作ってくれたリュックサックに、持てるだけの荷物を詰めて背負い、両肩からかけた袋。3歳の妹に至るまで同じ姿でした。町外れの広場に集まり、引き揚げ列車を待ちました。牛馬を乗せる貨物列車が引き揚げ列車でした。私たちの町から通常なら1日もかからないところを、釜山(プサン)まで3日3晩かかりました。その間、生まれたばかりの妹のミルクをアルマイト※2のコップで溶かし、ろうそくの火で温めて飲ませていた母の姿は忘れられません。
釜山からの引き揚げ船はあちこちの町から集まってきた引き揚げ者でぎっしりでした。体を横にする場もなく、父や姉は階段に座っていました。その日の玄界灘がひどく荒れて苦しかったことを覚えています。翌朝、初めて見る遥か彼方の陸地が日本だと、甲板で人々が歓喜の声を上げていました。私は今でも唱歌「ふるさと」を歌うとき、この時の情景を思い出します。
2日後、やっと博多に上陸したのが、私の日本への第一歩です。それからの検査は、全身が真っ白になるほどDDT※3をかけられたり、コッペパンを1個ずつ配られたり、難民の行列さながらでした。家族も離ればなれの行列で、小学4年生の私と2年生の弟はどの場でもしっかりと手をつないで行動しました。父の本籍地である京都に着いたのは、生地を発ってから1週間後でした。それから、両親の戦後の生活との闘いが始まりました。
昭和10年(1935年)生まれの私が育った朝鮮全羅北道群山府は当時、日本人の町でした。日本敗戦のその日まで、この町で暮らしていることに何の違和感もありませんでした。学校から行く遠足や行軍※4で歩く郊外は、行けども行けども続く稲穂の波と一本道のポプラ並木。秋になると今も鮮明に私の脳裏によみがえります。全羅道は肥沃な土地で、朝鮮半島第一の穀倉地帯でした。日本の植民地であった当時の農場主は全て日本人。群山港から内地(日本)に向けて朝鮮米を出荷していました。その生業の上に私たちの生活があったのだということは、戦後の教育で初めて知りました。
73年前、文部省が作った『あたらしい憲法のはなし』※5で新憲法を習った時、「戦争は終わった」と実感した感動を後世に伝えたいと心から思います。そして、正しい歴史教育は、次の世代を担う子どもたちに最も重要なことだと思っています。

※1 引き揚げ・・・1945年8月15日時点で、日本の外地または占領地などにおいて生活基盤を有する一般日本人が、太平洋戦争および日中戦争における日本の敗戦に伴い日本本土(内地)へ戻されること
※2 アルマイト・・・アルミニウムの表面を酸化させて膜を作り、腐食しにくくしたもの
※3 DDT・・・有機塩素系の殺虫剤、農薬。シラミなどの防疫対策として外地からの引き揚げ者や、一般児童の頭髪に粉状の薬剤を浴びせた
※4 行軍・・・軍隊が隊列を組んで長距離を行進・移動すること。戦時中は授業の一環として行われた
※5 あたらしい憲法のはなし・・・終戦後の1946年、日本国憲法が公布されたことを受け1947年に刊行された、新制中学校1年生用の社会科の教科書。日本国憲法の精神や中身を易しく解説している