工場動員として過ごした日々中野朝子さん
- 学徒動員
- 空襲
私が小学6年生の昭和16年12月8日、9人の海軍の若者が真珠湾を、人間魚雷となって攻撃。アメリカとの戦争が始まったのです。9人は九軍神※1と呼ばれました。翌年4月、念願の女学校1年生になりました。初めての英語の勉強をしましたが、2年生からは、アメリカの言葉だからということで、英語はまったくなくなりました。それどころか、「来年からは軍国少女としてお国のために軍役奉仕、工場動員、勤労奉仕で働きます」と言われました。
私が住んでいた裏山には高塔山と石峰山という2つの高い山があり、軍役奉仕とは、高塔山の頂きを平らにし、高射砲陣地※2にするための、モッコ担ぎ※3の手伝い。工場動員とは、私の家の近くにある鉄道工場が軍需工場となるので、その手伝い。1年生から4年生までが交代で行きました。登校日は週に1回はありましたが、それも陣地で働く兵隊さんたちのために野菜をつくる畑作業でした。
工場動員の1日目。工場の近くにある古前(ふるまえ)小学校卒業の4人が救護班に選ばれ、説明がありました。警戒報が出ると正門に集まり、走って20分ほどのところにある救護班の詰め所まで走るとのことです。
その日は早くも来ました。正門に集まると、すぐに空襲警報。真向かいに見えた防空壕に入りました。弾がバラバラと落ちてきますが、飛行機もいつまでも飛び続けることはできず、一度去っていきます。その間に4人が出て、トウモロコシ畑に身を伏せ、辛うじてしのぎました。4人でいると見つかるとの思いで、誰ともなく「2人ずつになろう」といい、私も篠原さんと2人になり急ぎました。途中、10m前に大きいひさしのある家が見え、私たちはそこに走り、後ろ向きにつま先立ちしました。そこに敵機が来て、足元めがけて弾を撃つのです。つま先立ちしているので、幸いにも弾は当たりませんでした。2人で、「どうせ死ぬんだったらアメリカ兵をにらみつけて死んでやろうよ」と決めました。そこへ敵機が戻ってきました。アメリカ兵の顔が見える近さです。綿の入った防空頭巾を取って足元に置いた私たちに、機関銃を、身を乗り出して構えていたアメリカ兵が、何を思ったのか急に銃を隠し、「バイバイ」というように手を振って去っていったのです。
何も考える暇はありません。急ぎました。途中、線路のところで大ケガをしている男の人を見つけ、私が詰め所に走り、仲間の2人とタンカと薬を持って、指定されていた医院まで連れて行き診ていたのですが、「ここでは無理なので市立病院まで連れていってほしい」と言われ、また4人で市立病院へと急ぎました。けれども、私たちが付き添って入り口まで来たときには、数本の電柱が焼けて倒れ、電線から火花が吹き出していました。入り口からは無理なので、海沿いの線路伝いに急ぎ、やっと病院にたどり着き、タンカごと渡し、わが家へと急ぎました。家も祖母も両親も無事でした。
その翌日からが大変な日々でした。毎日B29が夜となく昼となく飛んできて、爆弾や焼夷弾を落としていくのです。そして、8月9日の朝のことでした。工場へ行こうと表に出ると、敵機来襲。空を見ると雨雲がいっぱいで、爆音だけが聞こえます。時々、雲の切れ間から光る飛行機。1時間以上飛んでいましたが、諦めたのか、雨の空へ飛び去って行きました。あの8月9日がお天気だったら、私の命は15歳で終わっていました。
※1 太平洋戦争初期の真珠湾攻撃に参加した特殊潜航艇(甲標的)の乗員9人が、戦後、軍によって「軍神」として祀られた際に使われた称号
※ 2 飛行機からの攻撃から地上を防御するために設置された陣地
※3 縄などを網状に編んだ運搬用具を棒で担ぐこと。土砂などを運ぶ