焼き付いたB29の思い出村上由美子さん
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私が生まれた昭和16年、12月8日に戦争が始まりました。これは、北九州市門司に住んでいた、3歳から終戦の4歳までの私の記憶です。父は生まれた妹の顔も見ず、出征。留守を守る母、祖母、叔母(18歳)、兄、私、妹の6人が残されていました。
家には、近くの山頂にある高射砲陣地の隊長(大尉)さんと数人の当番兵が、空襲のない昼間に下山して、私の家で休憩していました。
毎晩、空襲。警報が鳴ると、私は祖母に手をひかれて山の防空壕に逃げる間もなく、すごい轟音をあげてB29の敵機編隊※1が来襲。関門海峡をめがけて機雷の投下や、民家へ雨のごとく焼夷弾を投下。民家の類焼を防ぐため、母や叔母は家を守り、まだ赤ちゃんだった妹は、家の庭に掘られた防空壕に置き去りにされ、終戦間際の夏には、蚊に顔などを、毎晩刺されて、赤くただれてかわいそうでした。
山頂の高射砲からB29を撃ち落とすために、あちこちの山から探照灯(サーチライト)がうごめき、灯りの中心に機影を見つけたら、高射砲が集中砲火して、見事撃ち落としたら歓声。米軍が落とした電波妨害のための錫(すず)(?)のテープが引っかかっているのがキラキラ光り、まるで映画を見ているような風景でした。機雷が風向きで海に落ちず、陸地に落下することがあり、兄たちと一緒に見に行くと、クレーターの中心に黒い物体の頭が見え、そこから長い紐の先にパラシュートの傘が風でうごめいて、まるでいきもののようで怖いと思いました。後日、山へB29の残骸と米兵の遺体が木にぶら下がっているのを見に行ったときは、戦争の残酷さを、子ども心に焼き付けました。
8月15日、終戦で隊長さんが故郷の福島県へ帰郷されるのを門司港まで見送りに、家族で行ったのを覚えています。幸い私の父は無事復員してきて、妹の顔の治療のため、別府温泉へ湯治へ長い間行きました。今でも妹の顔にはケロイドが残っているのが、かわいそうです。お父さんが戦死され、母子家庭になって苦労している近所の友達が多く、二度と戦争はくり返してはいけないと、強く思っています。
※1 2機以上の航空機が飛行する際に組む隊形