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「お国のために」小学生も慣れない農業を有馬和子さん

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国民学校2年の後半に家族と離れ、1人で親戚の家に疎開しました。3年になると集団疎開がありました。
戦時中のこと、学校のグラウンドを耕し、カボチャやイモを育て、できたものは学校へ納めました。後から思うと授業だったのかもしれませんが、とにかく大きく育てなければなりませんでした。
学校は時々休みになり、いろいろな物を採りに行きました。竹の皮、孟宗竹の大きいもの、ドングリや彼岸花の球根、茅萱などです。田舎ではラミーと言っていましたが、草丈50センチくらいの植物の茎を刈り、その皮を剥ぎ、乾かしてから学校へ納めました。
学年により、量や重さが決められており、何に使うのか説明はありませんでしたが、何かの役には立ったのでしょう。
秋には、非農家の子どもは田植えや稲刈り、麦踏みなども手伝いに行きました。稲刈りでは町の子は、刈る時鎌で小指を切り、ひどい傷を作った人が何人かいました。稲を刈る時の鎌の持ち方を知らず、慣れていないが故の事故でした。温泉のある場所だったので、戦時中は傷ついた兵隊さんの慰問などもしました。
今思えば、ドングリや彼岸花の球根からは毒やでんぷんを取ったのだろうと思います。食糧難の時代でした。お国のためにと小学生がいろいろやっていたことはあまり耳にしないので、ちょっと記してみました。思い出せばまだまだありますが、その中のひとつです。この話がお役に立てばと思い記してみました。