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平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

【特別寄稿】被爆者の私に今できること京都原水爆被災者懇談会 世話人代表 三山 正弘さん

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1945年8月9日、長崎市に投下された原子爆弾で被爆した両親のもと、私は翌年に生まれました。当時は母親のお腹の中にいたので「胎内被爆者※1」に分類される、生まれた時から「被爆者」です。
とはいえ、幼い頃から「自分は被爆者だ」という意識を持って暮らしてきたわけではありません。小学校高学年になっても、両親は被爆体験については一切話さず、親類からも「被爆者である」という言葉を正確に聞いたことはありません。自分が被爆者ではないかということは、当時の新聞報道などで何となく分かってきましたが、私は特に大病を患ったこともなかったため、被爆への具体的な感情はありませんでした。
父は熱線による火傷、母は路面電車内で満員の乗客の下での被爆。両親の被爆状況は、他の被爆者の凄惨な被害に比べれば、まだ軽度であったのかもしれません。

両親は60歳前後で、白血病で亡くなりました。そして、それまで元気そのものだった4歳年下の妹が、62歳の時に突然、白血病を発症しました。妹は両親と同じ病気に罹り、両親と同じように死んでしまうのか…と思いました。その時は2012年、原爆投下からすでに67年が過ぎていました。
妹は幸いにも「臍帯(さいたい)血移植※2」のドナーに、わずか3カ月という短期間で出会い、そして移植手術を受けることができました。放射線治療や化学治療を受け、頭髪は抜け落ち、吐き気や倦怠感、めまいなどが続く中、11年という長い年月をかけ、2023年に妹は白血病から復活しました。尽力してくださった主治医や、名前も分らないドナーの赤ちゃんには感謝の言葉もありません。

妹の発症をきっかけに、私は被爆者の一人としてできることはないかと考えていたところ、原爆被害の実態を語り継ぐストーリーテラーと出会いました。私は原爆被害の「語り部」活動を、70歳を過ぎてから始めました。

80歳を迎えた今も、私は健康に過ごしています。しかし、「次に発症するのは自分ではないか」という恐怖の毎日を送っています。

体内に残った残留放射能※3が、60年以上も過ぎて突然、病気を発症する怖さ。
たとえ発症しなくても「子どもを産めない」「障害がある子どもが生まれる」など、謂れのない誹謗中傷に悩まされ、自ら命を断った大勢の人。
核兵器は、被爆した本人だけではなく、子どもや孫にも関わる大変怖い兵器です。そのことを皆さんに知っていただきたく、私は学校や地域の団体などで語り部の活動を続けています。

戦争に勝利者はありません。誰もが加害者にも、被害者にもなり得ます。戦争に駆り出された、大きな夢や希望を持った若い兵士たちも被害者です。加害者も被害者も生まないために本当に必要なのは、戦争をやめ、核兵器などの殺人兵器を地球上からなくすことです。そして、世界中の人々が手を取り合い、青く輝く美しい地球の上で、すべての国の人が幸せに暮らせることを、心より祈っております。

※1 母親のお腹の中にいるときに、原子爆弾の放射線を浴びた人のこと
※2 赤ちゃんと母親を結ぶへその緒(臍帯)に含まれる血液を移植する治療法
※3 原爆投下後、地面や建物などに長期間残った放射能。直接被爆していなくても、後から被爆地に入った人が健康被害を受ける原因となった

三山さんの妹・清子さんと主治医

右:三山さんの妹・清子さん
左:主治医