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平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

南方の彼方に―俘虜(ふりょ)収容所※1記―古川美子さん(父・清水幸太郎さんの手記より)

  • 出征
  • 引き揚げ
  • 戦後
原 本

「海行かば」※2
海行かば みづくかばね
 山行かば 草むすかばね
大君の 辺にこそ死なめ
 のどには死なじ

幾多戦友に捧ぐ



バスコ島・マニラ

昭和20年8月15日、午前10時。終戦の詔勅※3を部隊長が読み上げる。みんな信じられない顔をしている。山をおりて、海岸の上陸地点に集結する。2、3日後、米軍の軽飛行機が上空から伝単をまき散らす。それには中国語で「武器を放棄して、降服せよ」と書かれていた。その後、海岸から米軍が上陸してきた。当方から白旗を持ち、中尉と兵隊1人が向かう。米軍は将校と4、5人の兵隊が1本の道路上で会見書簡をもらい、引き上げる。部隊長命令で弾薬、銃、大砲、日本刀などの武器、自動車などを海中に廃棄する。

2日ほどして米軍の上陸用舟艇が来る。海岸に乗り入れると、いとも簡単に前の方が左右に開き、中から大きな鉄板がおりて、海岸の砂の上に降りる。日本軍の舟艇は小さいが、米軍の船は大きくて便利にできている。その艇に順次乗船すると、広い船中だ。船底の中ほどにある四角形の鉄板に30人ほど乗ると、それがエレベーター式で、甲板に上る。甲板上にぎっしりつめ込まれた。その時、司令部の連中と別れてしまった。他の中隊の者とひと言も話さず、バスコ島と別れる。

1、2時間ほどして、マニラ湾に着く。舟艇から大きな縄梯子がおろされる。それにぶら下がるように、次々と下の上陸用舟艇に乗り換える。水陸両用車で、海上ではスクリューで前進。陸上では、車で走行する。初めて見るそれで、何十隻と陸に向かう。陸に上がると、西空が夕焼けで太陽が赤く大きく、これが有名なマニラ湾の景色だと思った。それからぞろぞろとマニラの停車場に行く。貨物車が並んで待っている。途中、子どもたちが「ジャップパタイ」※4と口々に叫んでいた。その時、敗戦の悲哀を感じた。

貨物列車に乗せられ、港を出発。それから途中、線路上の土手におろされる。そこで米軍黒人兵が来て、銃を構えて、我々の持ち物を持ち去った。兄の遺品の時計と軍隊手帳、寄せ書きの日の丸の旗を持って行った。みんな土手に寝転び無口だ。

何時頃か、今度は「ハバーハバージャップ」※5とせき立てられ、米軍用自動車に乗る。朝方、誰かが「クラーク飛行場」※6と言っていた。すると、収容所らしき門が見えた。次々に降車して中に入ると、「服を脱げ」という。広場の一角に山積みにされた軍服、下着、靴はガソリンをかけて焼き捨てられてしまった。米軍は、ノミ、シラミを嫌った。

頭からDDT※7を撒かれ、シャツ、服を支給された。上衣、下服、靴、みんな米軍の古着だ。帽子をくれる。それからコップとスプーン、食器を支給される。順番に20人ずつ幕舎※8に入る。3m間を両側に幕舎が並ぶ。
終戦俘虜が何万人いるかわからない。我々の幕舎から仕切られた向かい側は、尉官以上の宿舎である。そこに我々の部隊長、参謀、副官、各隊長が入っていた。その時、山下将軍も入っていると言っていた。そこで、将官たちと永久に別れてしまった。後日、部隊長は殺されたと聞いた。

それから長い1日が始まる。朝5時、起床ラッパが鳴る。顔を洗う。続いて、朝食ラッパが鳴る。食器とカップを持ち、配給前に並ぶ。食器にはドロリとした水分の多いおかゆをくれる。カップには紅茶のたき出しを一杯。それを幕舎に持ち込み、朝食をとる。俘虜になって初めて食にありつける。おかゆには丸い薬が入っている。それがキニーネ(マラリア)の薬とわかった。そんな生活が2、3日続いて、1名ずつ別室に呼ばれ、タイプを打つ兵士(2世兵士)が、日本語で名前と階級を聞き、タイプに打ち、アメリカ陸軍省に報告する。あとで認識表番号札をくれる。首からいつもかけている。

暑い日々が続くが、何日かわからぬ。四列縦隊に並ぶ。順番にシャベル、ツルハシを持って、山の方向に並ぶ。穴掘作業を始める。周囲には銃を持った米兵が「ハバーハバージョー」と叫ぶ。山へ向かって穴を掘るのは、俘虜への見せしめと思う。夕方まで作業をして帰幕する。そしてまたおかゆを食べる。夕方6時半から9時ごろまで、自由時間。幕舎で雑談にふける。空腹だから、内地の食べ物を想像すると、いっそう空腹になる。幕舎内は40歳から22歳までいろいろな人がいた。滋賀県人と隣りで生活した。甲賀郡の人で室町の呉服屋にいたと言っていた。また、入れ墨の40歳の人もいた。雑談を交わし、9時ごろ消灯で寝る。

それから今度は米軍トラックに乗せられ、セメント運びの作業をする。一輪車の車にセメントを入れ、力がいる。安定が悪い。米軍に尻を蹴られ、「ハバーハバー」の連発。内心、「白ブタ奴」と小さくののしると、向こうもわかるのか、尻を蹴りまくる。そして、場所がわからないが、木造の建物ができる。それから今度は、米軍のテントを運ぶ。自動車に乗せるのに、我々が5、6人がかりなのに、米軍は2人で乗せる。力が強い。それから1週間ほどして、夜間作業に入る。夕方6時に出て、翌日、朝6時に幕舎に帰る。夜間作業といえども、さぼれない。ある晩、ビンの入った箱を運ぶと、それが蚊除けの薬とわかった。それを塗ると蚊がこない便利なものだ。それから鉄箱の長い箱を運ぶ。それが、米兵の死体入れ。全部、土葬だと。ある日、タバコの荷下ろしに行く。厳重な二重の入り口で、いつも作業は監視つきだった。今度は米軍の将校の当番に行く。将校にタバコをくれと言うと、気楽にくれる。

今日は、クリスマスである。朝6時、集合。幕舎を出る。本日の作業は、ビール置き場に連れて行かれた。野積みにされたビール箱が山積みされている。そこに長い10トン以上の軍用車が来る。それからレールが継がれ、積み上げ作業に入る。その時、黒人将校が来る。突然、腰のピストルを抜き、1人の俘虜に向け、足元めがけ、パーンッ、パーンッと2、3発、撃ちこむ。砂煙が舞い上がる。驚くほど正確なものだ。ビールを盗飲したと言っているが、みんな素知らぬ顔をしている。顔は真っ赤になっているが、現場を押さえていないから、仕方なくブツブツ言いながら立ち去る。翌日、また作業が変わる。今日は、くず拾いだ。ボール箱に糸をつけ、引っ張りながら、紙くず、釘などを拾い歩く。情けない姿だ。作業はいろいろな場所に回される。夕方6時には交替する。幕舎に入るまで、毎日身体検査を受けるが、みんな上手に見つからずにトランプ、太いローソク、マッチ、タバコ、蚊の薬紙などを持ち帰る。トランプでよく、幕舎で夜9時まで遊んだ。器用な人がいて、木切れで麻雀牌、将棋の駒を作り、遊んだ。

毎日、無気力な生活が続いた。そのうちに大事件が発生した。マニラ集積倉庫から火災発生。自分たちは軍服作業場で作業中、向いの倉庫2階付近より煙が出て、その中、火の手が上がる。その倉庫は楽器類の倉庫で、ピアノ、太鼓、ラッパ、いろいろな楽器倉庫だ。我々、必死になって外へ運び出した。その頃、フィリピン人は火事場泥棒で、大分、外部へ持ち出したようだ。米軍が銃を発射する。空からは飛行機、陸から何十台の水タンクが来る。それは必死の消火作業だった。ようやく火が消えた。みんな幕舎に帰る。今日はみんな持ち帰り品はなしだった。翌日、収容所長より感謝状をもらった。日本人俘虜は旧軍人として立派に、整然と物品を運び出したということだった。

その日から日本人俘虜に対する態度が変わった。幕舎では、夕方7時より芝居小屋が作られ、「貫一お宮」の芝居が開かれ、米軍人たちと見物した。それからは兵隊たちと仲良くなり、「柔道を教えろ」とよく遊びに来た。それから二度のクリスマスが来る。朝6時に集合、収容所出発。作業場に着く。そこは前にビール作業に来た野積集積場だ。通訳を通じて、「本日はクリスマスで、我々は休日だが、俘虜は休日がない。この場所で夕方6時までいるように」と命ぜられた。「夕方6時には1人の落後者もなく集合せよ」と。我々は先日の火事のお礼と勝手に思い込み、ビールを飲み放題だった。みんな赤い顔で無事、幕舎に帰った。

翌日から将校クラスの宿舎に当番兵として行く。靴磨きから洗濯、掃除といろいろなことを命ぜられた。その時は、よくタバコをもらった。その生活が1週間ほど続き、今度はマニラ市内のホテルに連れて行かれた。そこはマニラ城跡の近くで、一等地だ。まず4、5人で3階の部屋へ行くと、婦人将校がシュミーズ姿でベッドに足を組み、「カモン、カモン」と呼ぶ。みんな知らぬ顔をしていると、自分の前に来て、洋服(軍服)掛けを2、3枚持って、6階へ移動するのだという。3階から6階へ、階段を下から上へと、廊下を運ぶ。みんな情けない限りだ。その中に日本人のマスクをした中年の将校がおり、親切に教えてくれた。2、3日ほどその作業に行った。

その後は、食糧倉庫に使役に行く。大きなバケツのような入れ物に、何かが入っている。それをパネルの上に乗せて、他の場所に移動。積み上げ作業をする。中身は何かと見ると、アイスクリームの粉末で、どうやらドーナツの原料と思う。その他、あんず、乾燥野菜が入っている。キャベツの干物を水で戻せば、簡単に戻って食べられる。便利なものと感心する。

収容所を朝、出発前、昼食といって缶詰を1個くれる。中身は大豆、にんじん、肉入りのドロリとしたもので、それが主食です。他に2本タバコの入った箱をくれる。それから幾日かして、マニラの収容所に連行される。そこで日本の陸戦隊が着用した服を支給される。雑嚢1個、靴は黒靴を支給され、マニラ湾に行く貨物船に乗せられる。その時は、またどこかへ連れていかれると思っていた。

4日ほど乗っていたら、誰かが「日本が見える」と言っている。見ると、名古屋あたりの石原産業※9の長い煙突が見えた。二度と、再び、内地へ帰れるとは思っていなかった。

10月25日頃と思う。波止場に上陸した。その時、軍楽隊のマーチが「リンゴの歌」であった。上陸後、検疫があり、品物の検査を受けた。その時、日本新円で300円をくれた。当時、イモが1個5円だった。

長い長い時間を、こんな短い文章では書ききれません。薄れゆく記憶に思いを込めて、書き残す。

平成7年8月15日 終戦50年
元軍人・軍属 清水幸太郎

※1 降伏した兵士(捕虜)を収容するための施設
※2 『万葉集』収録の大伴家持の長歌を元にした歌。天皇への絶対的な忠誠と玉砕を象徴しており、戦時中は大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲になった
※3 天皇が戦争の終結を国民に告げるために作成した公式文書
※4 フィリピンの現地語(タガログ語)で「日本人は死ね」といった意味の言葉。当時の日本兵が浴びせられた蔑称
※5 軍兵士が日本人捕虜を急かす際に使った「急げ急げ」といった意味の言葉
※6 マニラの北西約80kmに位置する、太平洋戦争においてフィリピン防衛の最重要拠点として機能した日米両軍の航空基地
※7 当時、害虫駆除のために広く使われた強力な殺虫剤
※8 テント式の仮設の建物
※9 三重県四日市市に工場があり、当時「東洋一の高さ」と言われていた大煙突があった